表現と吉阪

住居学に興味のある私なので、吉阪隆正の一連の功績に注目しているのは当然だといえる。戦後の住宅事情の動向を探っていた吉阪は、工学的というよりは家政学的なアプローチをとることになった。人々の「生活」面から住宅に切り込もうとした建築家であった。

 

建築学というのは、建築への思考を介して人間について考える学問なのだ、と私は思っている。だから、人間が生きる上で不可欠な「生活」という事象から住宅を検討することは、当然であるといってよい。吉阪隆正がル・コルビュジエに師事したのも、「住宅は住むための機械である」というかの有名な一文を、「生活に寄与する道具」と捉えたためであると推察されるのだ。この辺りについては、『ル・コルビュジエと私』のなかで触れられよう。未読である。

 

生活を基軸にした機能主義が、当時の吉阪隆正の理想とする住宅に描かれていたであろう。それは、施主の要求を満たしながらも、変化する生活に適応できる力強い住まいだったと思われる。その結果としての人工土地とピロティであったはずだ。

 

吉阪自邸において、人工土地とピロティは、当然RCで計画される。これは戦後、自宅が焼き払われてバラックに住んでいた吉阪が、もう一度この地に住まうという強い意志表示をしたとも捉えられる。当然当時の状況を鑑みれば、RCの住宅は物珍しいものであったであろうし、周囲から奇異の眼で見られたはずだ。それでも彼は、もう焼き払われることのないような力強さを求め、そこに表現したのだろう。住まいに象徴性が生まれる瞬間だ。

 

吉阪隆正作品における象徴性は、彫塑的な造形に示されよう。それは生活の要求を満たす過程で突如造形に現れたものであろう。それは、とらえどころのない人間の生活を、生々しい形のままに形態化する作業ともいえる。その生々しさは、吉阪+U研究室のダイアグラム(都市住宅7508など)からも十分に伝わるはずだ。その結果、力強さを持ちながらもおおらかな全体性が見いだされる。これを繰り返すなかで、造形がもつ象徴性に覚醒したのではないか。もちろん集落調査を重ねる中で、潜在的に造形のもつ力を知っていたはずであろうが。後の大島復興計画ではそのことを明らかに強調し、極めてシンボリックな水取り山を計画・提案している。

 

つまり、人間が生きることの意味を造形に託した、と解釈できる。そしてこれは『有形学へ』につながる視点なのだろう。これも未読。まあ、今では「建築家の独善的表現だ」としか評価されないのかもしれないが…。