モノと住宅の関係について考えてみたい その1

少し前に、モノの有り様と住宅の関係に、近代以降変化がみられることについて触れたた、と思う。近代ではまだ、身の回りをとりまくモノの数は少なく、室内に置かれるモノは限られた。ゆえに収納自体も少なかったし、室の広さも大きくなかった。それが大半の人の住まいであっただろう。しかし、経済成長が進むにつれて、生活事情は一変した。生活にかかるモノが増えた。当然、生活に必要な道具(主に家電)は非常に便利であるし、娯楽が住宅内に持ち込まれるようになった(テレビ)。それまで家族は炉を囲んで集まっていたのが、テレビを囲んで集まるようになった。こうしてモノが増えた一方で、器としての住宅は大きく変わることはなかった。もちろん、新しい生活様式としての51C型が提案されたりはしたものの、モノと住宅の関係に切り込まれたものではない。3尺モデュールを基本にした木造住宅の計画は、生活に係るモノが溢れんばかりの現代にまで継承され、日本の住宅は小さい室で構成されるがままである、といってよい。

 

そこで、これまでモノと住宅の関係を問うてきた存在に宿る考えを整理してみたい、というわけである。それは間違いなく、建築家の提案であろう。幸い日本の建築家は、アトリエ的体質や住宅事情、公的権力の存在などを背景に、住宅作品によって自らの思考を実体化させてきた。そこにはおそらく、とらえどころのない生活との格闘の軌跡が眠るのだと思う。まあ、空間体験だけを目的にした作品もあると思われるが。

 

現代の潮流としては、「モノを雑然と配しうる住宅」が評価される傾向にありそうだ。彼らの中で、この状態を作り上げることが最大の目的である、という人は少ないとは思う。だが、結果としてこの状況が生まれることに価値があるのだとすれば、その価値観はいつから生まれたものなのであろうか。それは、都市に魅力を見出した時代からであろう。

 

また一方で、ミニマリスト的な価値観も根強いだろう。禅的な思想のもと、断捨離的な空間に身を置き、自然を最大限に享受する、というような考えも大いにありうる。安藤忠雄の「住吉の長屋」は最も有名な例であろう。このモノの少なさは現代において読み替えられ、住宅外部に生活機能の多くを預ける、といった層まで出現している。これは「生活機能を外部とシェアする」という言い方をすることができるが、「住宅から生活機能を排他する」という言い方も可能だ。コロナ禍のなかでうまく機能したのか心配ではあるが、平常時には至って魅力的な、「新たな」生活スタイルであっただろう。

 

「モノを雑然と配しうる住宅」と、「ミニマリスト的住宅」。現在において両者ともに共通するのは、「都市の存在」であろう。もはや現代において、多くの建築家の思考は都市に根付いているといってよい。都市の変化とともに、彼らの思考も進化する。だがしかし、都市―建築の構造を盲目的に信頼しつつある今日の教育には、少し疑問を覚えるが。

 

こういったことを、素人なりに少しずつ考えていかなければと思う。私の室内を見回せば、モノだらけであるのだから。