TL上に集まる

論文を漁っていたらここに書くことをサボってしまった。悪い癖である。習慣化するまで続けようと思っていたのだが、いつもその前に飽き性というか、他のことに心を奪われてしまうのである。飽き性なうえ、どこまでも中途半端なのだ。心の強い人間になりたい。

 

さて多くの県にて非常事態宣言が解除され、我が近畿においてももう少しにて解除される見込みとなっているそうである。解除になった次の日すぐ、大阪梅田に人があふれかえる、というようなことにはならないでほしいが。

 

このようなものは拘束力があるものではない。罰則もあるわけではない。ただ自粛を求められただけだ。私はそもそも、外出しなければならない用があったわけでもないから、ほとんど自宅で作業をしていたが。

 

宣言という国からの言葉が発されたことによって、多くの人は自らの行動を制限することになったであろうし、会社から自宅勤務を命じられただろう。やはり上からの指示があったから、これだけ多くの人が自粛することになったと考えられる。

 

もし宣言がなければ、多くの会社は通勤を強いたままだっただろうし、これまでの生活が継続されていたのだろう。その場合はやはり感染者数がいまだに増加していたのだろうか。

 

会社に勤める以上仕方のないことだが、やはりどうしてこんなにも生きづらい世の中になってしまっているのか、ということが今回の騒動で一番思われたことなのだ。人間が作り出してきた社会に従わざるを得ない状況、資本に飲み込まれていく人間の主体性というものが、こうもリアルに描かれることになるとは思わなかった。複雑化した問題を解くために、さらに複雑な社会構造を築き上げようとする…そうやってこれまで発展してきたのかもしれないが。この負債を積み上げていくような人類発展はいつまで続くのだろうか。

 

SNS上にて、政治批判やメディア叩きが流れるのを散々みかける。SNSで暴れている人のなかに、未だにワイドショーをみて一喜一憂している層がいることに驚いた。そういう人が多数派なのか。もしくは、叩きたい材料が見つかったから叩くだけ、という可能性もあるが。彼らはそうして、自らの意見と同調するものをみつけては、自身の声を世論として発信していく姿勢へと変貌する。SNSの情報検索性は、こういったときに(悪い意味で)加速装置となる。同調意見の者どうしで徒党を組み、集合する。自身の意見であるかのようなツイートがタイムラインに流れてくるのをみては、満足する。ここにある種のコミュニティが形成されると同時に、他意見を排他する。

 

このように、ツイッターのようなSNS、とくにタイムライン構造については、危険性をはらむものであることを理解されたい(多くの人が指摘されていると思うが)。検索機能による情報検索性、フォロー/リツイートによる情報限定性により、画一化された状況に知らずのうちに陥る。

 

心ない言葉がタイムラインに流れるのをみては、またかという心情になっているのだが、こういった層はSNSがあることによって救われている面もあるようだ。もしSNSという感情表現場がなければどうなっていたのだろうか。いわゆる「自粛警察」的な、暴動に近い形で現実に暴れている者も現れた可能性が示唆されよう。文字に起こすことというのは、多少感情を落ち着かせる効果があると思う。だから、ツイッターはいろんな意味で現代に不可欠であろう。

 

 

もっとも、批判を娯楽として行っている層もいるわけだが。彼らについては、どうもコメントしようがないのだけれど…。