奨学金と

ここになって大学生への支援策として、給付型奨学金制度の存在が発信されるようになったそうである。いつの時代にも学生の行動力には目を瞠るものがあるというか、注意しなければならないのかなんというか、彼らを敵に回すべきではないという意思を国から少しながら感じる。歴史を振り返り、学生運動が政治家の脳裏に浮かんでいるのなら少しは見直したものである。実際どうかわからないけれど。

 

もちろん経済的に苦しくなっている学生の存在は無視できないだろう。大学無償化などをすすめるこの国では、大学に対する経済支援があって当然なのかもしれない。

 

だがそもそも、大学無償化など必要なのか?といつも思う。半分以上の高校生が進学を決める今、おそらくだが大学生の質は低下の路をたどっている。もちろんすべての学校においてとは言えない。多くの国立大学では質を維持できているのだろう。だが全体で見てみればどうか?大学が余っていると言われるほどに私立大学が乱立し、金を出せば入学できるような学校で4年間学習した気になっている学生が増えているのではないか。いや、大半の学生が就職活動に1年半近くを浪費しているのだから、専門分野への理解など深めようとしてもわずかばかりである。

 

また教育方針からもそのことは明らかだ。文科省により、「質より量」の方針がとられている。1セメスター内で◯時間以上講義をすること、という指示が各教育期間に指示されている。大学教育における最近の方針のなにもかもが、学生の自発的な学びを阻害しつつある。

 

その反動として台頭してきたのが、学生が主宰するベンチャーなどであろう。彼らが大学外で得たスキルを自らで活かす術を学び、そして起業する。その能力や発想力、行動力は大いに尊敬したい。そうした優秀な彼らであるが、おそらく大学で得た学びは少ない。もちろん人間関係の重要性などは学んでいるであろうが。

 

多くの大学は、就職予備校に成り下がっている。これは極めて残念な現実である。研究機関としての性質は学生に対して伝わっていない。またそうした面は、国によっても排他されつつある。

 

学生に対する給付型奨学金制度に関してもそうだ。これは学部生にしか適用されない。大学院生にはこの制度は利用できないのだ。

 

課程博士を多く排出し日本の研究レベルを上げる、という理想を掲げる国に対して、そのシステムは中途半端どころか、学問を修めんとする少数の学生からさらに搾取するだけのものになりつつある。博士課程に進学する学生の数が少ないために話題に上がること自体が少ないが、ポスドク問題などは一向に解決の方向に向かわない。

 

これらハードルを乗り越えてこそ一流の研究者だ、という話になるのかもしれない。実際にこの現状を苦にせず、素晴らしい研究成果を出している若手研究者もいるのだから。しかしながら研究機関・教育機関に潜むこのどうしようもない二面性が、奨学金を介して改めて浮き彫りになる。