住居の意味

自身のアウトプットの習慣化のために一日に1000文字ぐらいは書こうとしていたのだが、先日は500字程度のを一本だけ、ということになってしまった。反省。

 

吉阪隆正集は3巻までとりあえず読み進めた。ところどころ流しながら読んでしまっている。が、重複する内容も多々登場するので妥協というところ。

 

第3巻は『住居の意味』である。ここに、吉阪隆正のもつ住居論が述べられていると思う。以前述べたように、彼は世界中の住居を観察し住居の普遍性を追求しようとした。そのなかで「生活学」という視点にたち、人類史的考察を繰り広げる。それは人間の根源的なものであり、生きることとはなにか、を私達に再確認させてくれる。

 

これら一連の「住まいの原型」に関する論考は十分に科学的とはいえないかもしれない。現代においては時代遅れだという意見もあるかもしれない。しかし、住まいの原型を探ることは、すなわち「人間とはなにか」という問いを突き詰めることであり、それを介して今後の人類の生活を考えることになるのである。したがって、この観点は忘れ去られてはならない。

 

現代においては、この「住まいの原型」について、各個人の「住まいの原型」があると適用できると考えられよう。住宅は個人と社会の境界にあるものだが、「自己保存」と「自己発展」の場としての住居のあり方は個々人によって異なる。特に多様性が叫ばれる現在においてはなおさらだ。個々人の生活をある型で定めることなどできないし、仮にしたとしてもそれは時間経過で様相が変化する。そこで、各人が自身の生活に対して覚醒し、どのように自己実現するのか、ということになってくるのである。これが個々人の「住まいの原型」となる。

 

ここに、商品化住宅の危険性が指摘される。とくに建売分譲では、いまだに◯LDKという表記が使用されている。(テレビ番組の住宅紹介番組などをみていると、農村住宅までもがこの表記で紹介される始末である。これについてはかなり不快に感じる)室数と機能が画一化された住宅において、住まい手の主体的な生活に寄与し得るのだろうか。この問題は90年代から叫ばれているものの、未だに改善されないように思う。商品化住宅(とくにnLDK型)についてはまた別の機会に述べたい。

 

話が戻るが、個々人の生活は簡単に型に当てはめることができない、という話があった。しかし吉阪隆正によれば、個々の生活を細分化すると大きく分けて3つに分類されるという。生理的行動(食事・睡眠・排便・生殖など)を「第一生活」、生産的行動(いまでいう職能)を「第二生活」、表現的活動を「第三生活」というように。特筆すべきはやはり第三生活の存在であろう。彼は、第一生活と第二生活の存在理由は第三生活のためにある、とまで記している。ここに人間の生きる意味がある。古代の壁画などからも通底する考えであるという。なお、第一生活の余裕がでてくると第二生活が登場し、第二生活は第一生活とは無関係に肥大化することもある。これはまさに現状のコロナ禍の社会情勢と一致する。

 

このような生活構造を述べた上で、吉阪隆正は生活の弾力性を強調した。それは、時代に合わせた住まいへの提言だったのだろう。いつの時代も、保守と革新がぶつかりあいながらも、次第に革新的要素が取り入れられていく。それがいつしか普遍になるのである。生活の弾力性は、新たな器に適応できるのだ。ここに彼は、人工土地の提案をした。

 

近代的な理想主義の香りが漂い、現代では時代錯誤感が強いかもしれない、しかしそこには人間への信頼性が見え隠れしている。彼は最も人間を愛した研究者・建築家のひとりだったであろう。